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どう生きるか、どう逝けるか

どう生きるか、どう逝けるか

こんにちは、言語聴覚士の池田です。

タイトルを見て「おや?」と思われた方は、いつも私のInstagramも見てくださっていますね…本当にありがとうございます。

私が臨床を考えるとき、大切にしているのはまず自分の死生観です。
幼いころから病院や病、あるいは死に近しかった私にとって、「死とは?生とは?」を考えることは普通でした。
大学を出てわざわざ国立の自由な校風の大学院に進み、死生学に触れたかったことは自然なことだったとも思います。

日本ではそもそも、かつて死はタブー視されやすく、あまり触れてはいけないことのようにさえ思われていました。
今でこそ尊厳死などという言葉がよく聞かれるようになりましたが、それでも「じゃぁどうする?」というところまで個人が踏み込めていないのが現状です。
というのもかつてない医療技術の進歩は、畳の上で死ねなくなったことの意味をゆっくり考える隙をも与えることができなかったからであり、一見表裏である死生の疎隔までは埋めることができなかったからでしょう。

私はかねてより、そのタブー視された日本の文化としての“死の享受”の過程そのものに興味がありました。
そして死にむかう当人、その周囲の人、そしてそれを支える人、そのそれぞれの立場から得られる心の動きです。

死にむかう人については、エリザベス・キューブラー=ロスの『死の瞬間』が最も有名でしょう。精神科医であった彼女が死にゆく人たちと向き合い続け提唱した、死の受容に関する心理プロセスは、医療に携わる多くの人が通るところです。

その周囲の人については、「デス・エデュケーション」をまず学びたいところです。
死の準備教育、と訳されるその分野は、日本においてはアルフォンス・デーケン氏が第一人者として長く上智大学で教鞭をとってきました。
死を考えよ、そして生を見つめよ。ヨーロッパには古代からmemento mori、つまり“死を想え”という考えがありました。(もっとも当時は、その言葉はcarpe diem、“今を楽しめ”と表裏で用いられていましたが。)

私たちは医療に携わる専門職として、このどちらも学び、“支える側”にならなければいけません。

しかしなにも、わざわざ死を支えるわけではない。
死を学び、死を考えることが、生そのものを良くします。あるいは、その逆も。それを知ることで、より目の前の方にぐっと寄り添えるということです。
あなた自身はどういう死に方をしたいと思うか。永六輔も、「生き方ばかりじゃどうにもならない」と言います。
仕事の中で人の死生にも関わることのある私たちは、まずは自分自身の死生を見つめ直しましょう。
人間には100%、いつかは死が訪れます。

限りあるものは美しく、儚く、また尊い。
しかしそれは、死生双方が表裏にあることを知ることで初めて現れる側面です。


書こうと思えば修士論文アゲイン並みに綴れますので、今日はこのあたりで。(これでも序の序の序にもなっておりませんが。笑)
気になる方は個別に語り合いましょう。

●Instagramーst.m.ikedaー●